自分の口から出る言葉
2011年12月28日
このブログを読んでくださっている方々は、たぶん、日頃日本語を話していらっしゃることでしょう。
学校では、国語という教科があったはずです。お好きでしたか、嫌いでしたか。
昔、京都の街中で、4、5歳ぐらいの女の子が、
「◯◯してはる」
と、京都弁でしゃべっているのを耳にし、
「おお、こんな小さな子でも京都弁を駆使している」
と、驚いたことがあります。妙に感心しました。
同様に、英語圏の国に行けば、子供も英語を話しているわけで。
それに対して、自分は話せない、と引け目を感じたりしてはいませんか。
早期からの英語教育が大切と言われ、小学校から教えるようになりました。
私は、そのことについては特に反対はいたしません。
ただ、先にもっと力を入れるべきことがあるはずなのに、それが考慮されていなことを深く憂えるものであります。
先に力を入れるべきこと、それは、美しき日本語の習得です。
細かく書けばたくさんあります。
それをここに全て書き連ねていると、小論文になってしまうのでやめておきます。
(小論文にするなら、もっとしっかり文章の構成を考えてから書かないと。)
さて、まずは敬語の使い方に関して。
仕事柄、よく営業の電話がかかってきます。
先日は、若い男性がこのようにおっしゃいました。
「原先生は、お見えですか」
電話口で、ですよ。
「見えられますか」よりはましだ。でも。
そうそう、しばらく前にはこんなセリフの方。
「原代表って、お手すきですか」
これって、ヘンじゃね?
某有名ビール会社の、某有名ビールのCM。
男優のナニガシが、年若い客人ひとりを迎え、料理を作り、いざビールを、というシーンでこう言う。
「さあ、召し上がろう」
私、頭がクラクラしましたよ。
即刻、そのビール会社のHPにある問い合わせフォームを使い、「このCMを作った方々、それを許可した方々の日本語に対する見識を問いたい」旨、書いて送信しました。
速やかに返事が。造語だとのこと。そして、その造語の意図を解説してありました。
納得できません。造語でも、許される範囲とそうでない範囲があると、私は思う。
召し上がるは、食べるの尊敬語なのです。
あ、その前に。(ややこしい。)
去年だったかおととしだったか、敬語の分類が変更になったこと、ご存知ですか。
私は新しい分類を覚える気がありません。
敬語の種類には、尊敬語、謙譲語、丁寧語がある。そう覚え、敬語を大切にして生きてきました。
分類をいじって変えることで、何になるというのでしょう。
国民の敬語に対する意識が変わりますか。
敬語を使いこなせるようになりますか。
分類をいじってそれでよしとするのは、識者の机上の満足に過ぎない。
何の得もないどころか、私のように、正しい敬語を使うことが大事だと思っている者からすると、弊害ですらある。
分類を覚え直すという無駄な労力を必要とするから。
よって、私がここで書く内容は、おそらく旧分類に依ります。
さて、話戻して。
召し上がるは、食べるの尊敬語。
そして、さらに発展して申しますと、召し上がられるは、おかしい。
言うの尊敬語がおっしゃるで、おっしゃられるがおかしいのと同様。
最近、驚くほどの頻度で使われる言葉に、「いただく」がある。
ごはんをいただく、ケーキをいただく。
どうやら、みなさん、いただくは食べるの丁寧語だと思っていらっしゃるよう。
(そのルーツとして、私が密かに特定しているテレビ番組あり。それはさておき。)
いえ、実は、丁寧語かどうかなどとも考えず、食べるを自動的にいただくに変換して使っているのです。
いただくは、謙譲語です。
では、飲むの謙譲語は何だかおわかりになりますか。
これも、いただくです。
でも、なぜかみなさん、コーラをいただくとは言わない。
この矛盾、おわかりになりますでしょうか。
いただくが食べるの丁寧語だと思っているものだから、こんなことを言う人が出る。
「どうぞ、ごはんをいただいてください」
「うちの店のケーキは甘さ控えめなので、2個ぐらいは軽くいただけます」
これらがまちがっていると、おわかりになりますか。
次。れる、られるについて。
召し上がるが食べるの尊敬語だと申しました。
でも、これを、食べられると言う人が増えています。
ある動詞を尊敬語にするには、とにかく「られる」を付ければいいと、これまた思い込んでいるよう。
「テニスをやられるんですか」
「お酒、飲まれるんですか」
「どうされましたか」
これらは、文法的にはまちがってはいない。
けれども、感覚的におかしいのです。
そう。この、感覚というもの。
これこそが、敬語を使う上で必要だと私は思うのです。
どういうときに、どういう敬語が適切であるか。
この感覚はどうやったら磨かれるか。
それは、小さい頃から有無を言わさず使うように仕向けること。これに尽きると私は考えます。
英語教育が早いうちから必要だと言うならば、それより前に、母国語の中の非常に大切な分野、敬語を習得させるべきです。
学校で先生にタメ口きくことを許すから、敬語を肌で覚える機会がなくなっている。
私はそう考えています。
心があれば、言葉に現れる。その逆も真なり。敬語を使うことで、敬う心も育つのです。
学校の先生は、友だちではない。
られるに戻ります。動詞を尊敬語にするには「られる」を付ければいいと信じている方々は、可能を「れる」に統一します。
つまり、「られる」は尊敬、「れる」が可能。こう、単純化してしまっているわけです。
食べるの可能は、食べれる。尊敬は、食べられる。
見るの可能は、見れる。来るの尊敬が、見えられる。
本当に、本当に、ヘンだ。
最近のヒット。
とあるセミナーの案内が往復はがきで来まして、返信用の面にこうあった。
「何か、講師に聞かれたいことはありますか」
そうそう。もう25年近くも前になりますが、ある作家さんの本を読みましたところ、「見れる」「食べれる」と、ラ抜き言葉のオンパレードでした。
私は呆れ、編集部気付で手紙を書きました。
それに対し、編集者の方からお返事のはがきが届いたのですが、そこには、「日本語は、時代とともに変化していくものである」という趣旨のことが書いてあったのです。
日本語をメシのタネにしている方がこういう意識であるのかと、私はたいそう嘆かわしく思いました。
そうだ。ここでまた大きく話はそれます。
今、私は「たいそう」という副詞を使いました。
この、動詞を強調する副詞には、数多くの種類があります。
思いつくままに挙げてみますと、とても、非常に、たいそう、いたく。場合によっては、深く、心底なども使います。
それを、最近、「すっごく」「すんごい」などの言葉で済ます傾向があります。
「れる」と「られる」の使い方の単純化。
いくつもある副詞を「すっごく」のみとする単純化。
言葉に対する能力が、どんどん退化している証ではないでしょうか。
言葉が時代とともに変化することは、私も承知しております。
だからこそ、古文の教科書にある「をかし」など、その意味が現代とは違うわけです。
それでも、安易に変化していくことを見過ごしてよいはずはないと、思いませんか。
「かな」も、最近使い方がおかしくなった言葉のひとつです。
広辞苑を引きますと、「かな」についてこうあります。
― 疑問の助詞「か」に詠嘆の助詞「な」の付いた語。
これは、テレビの報道番組で見たシーンです。
幼児が誘拐され、遺体となって発見されました。
その親御さんが、会見でこう言いました。
「早く犯人が捕まるといいかな、と思います」
こんな場面も。
ある問題を起こした会社の中年男性社員が、インタビューで言いました。
「この問題に関しては、見解の相違かなと思います」
力が抜けます、私。
そうです。今や、むちゃくちゃな敬語も、ラ抜き言葉も、「かな」の不適切な使用も、全て、年齢に関係なく行われていることなのです。
ということはどういうことか。
頭が柔らかい年齢から、正しい日本語、美しい日本語を有無を言わさず脳に入れることが大切であると同時に、たとえいくつになっても、自分がどういう言葉を使っているか、常に意識すべきであるということです。
そうでないと、70代のおばあさまのラ抜き、それなりの地位のある方の「~かな」が横行するのです。
言霊という考え方があります。その考え方でいくと、どういう言葉が使われるかが、吉兆を左右します。
そのことにはここでは触れませんが(本当は触れたい。)、言葉はそれほどまでに大切であるということです。
最後に余談。
ラ抜き言葉は間違いですが、ある地方の方言には、ラ入れ言葉があります。
「あそこに行くと、無料ティッシュをもらうことができる」というのを、標準語で別に言い換えると、「あそこに行くと、無料ティッシュがもらえる」ですね。
これを、某方言では、「無料ティッシュがもらわれる」になるんです。
おもしろいですね。
さらに余談。
書き言葉にも、私は危機感を持っています。
このブログ記事もそうですが、文の頭をひとマス開けない書き方が、当たり前になってきている。
これは、日本語では正しくない。そのことを知っていてするのと、知らないのとでは大違い。
私も、ブログやメールなどはひとマス開けない書き方をしますが、人様に手紙を出すときは、たとえ横書きであろうとも、きちんとひとマス開けをいたします。
本当は当たり前なんですけどね。作文の時間に習っているんだから。
手紙やはがきを書く機会がゼロに近くなっているこの時代、正しく日本語の文章を書けない人も多いのですよね。
もう一丁、余談。
営業電話がかかってきて、私が丁重にお断りしますと、相手の方はこう言います。
「了解です」
うーん、傑作です。
ふぅぅ。構成もほとんど考えずに書きました。
愛する日本語への思いが募って。
言葉を常に意識するということは、母国語である日本語を大事にすることです。
と同時に、自分の発する言葉が相手の気持ちにどう届くかを意識することでもあると思います。
自分の言葉が、人を傷つけているか、癒しているか。
美しい日本語を守っていこうではありませんか。
それは、巡り巡って祖国愛にもつながっているのです。大げさではなく。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。
どのような考え方に基いてカウンセリングを行っているのか、
月に1、2回のペースで書いていきたいと思います。
端的に言えば、「人間の本質は善である」ということ、
そして、「自分を愛してこそ、人を愛せる」、「国を愛してこそ、自分を愛せる」
ということが根底にあります。
また、どんな人生にも意味と目的があるということも伝えたいと思っています。
平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)