何の専門家なのか
2012年8月22日
大変ご無沙汰いたしました。
書くテーマはたくさんあって、それらを箇条書きにしてパソコン内に保存してあるのですが、書けないでおりました。
カウンセリングの仕事を始めてもうすぐ10年ですが、その間ずっと考えてきたことがあります。
「私は何の専門家であるべきなのだろう」
特に何の専門家でもなく、さまざまなお悩みに対応できるのが私の強みだと思っていました。
けれども、たとえば、「講演引き受けます。どんなテーマでも大丈夫です」とすると、かえって要請が少なくなることに気づいたのです。
私は、親子関係でも、夫婦関係でも、仕事に対する姿勢でも、1時間話せと言われれば話せます。
それらの芯にあるものは同じだからです。
しかし、人が求めるのは、ときにスペシャリストです。
医者でいえば、内科医だが糖尿病が専門だ、とか、精神科医で、発達障害に詳しいとか。
カウンセリングを受けにいらっしゃる方のお悩みは本当に幅広い。
そういうみなさんひとりひとりに接しながら、私が常に苦慮してきたことがあります。
それは、いかにしたら、「神」という言葉を使わずに人間の生きる目的を伝えられるか、でした。
「神」という言葉に含まれる要素は、人によってかなり違うものです。
また、近年盛んに言われている「スピリチュアル」という世界も、珠玉混合であります。
ですから、「神」や「霊魂」という言葉を使って伝えると、拒絶されたり誤解されたりするのではないか。
それが私の心配だったのでした。
最近、ネット上でたまに見るサイトがあります。
ある人が自分の悩みを書き込み、それに対して多くの人から回答を求めるというサイト。
これを読んでいて、非常に驚くことがあります。
それは、悩みを説明した文章を、正確に読解できない人が多いということ。
「自分と近所の人たち」と書いているのに、「あなたと親戚の方々は」と回答者が書いている。
他人と身内では、話が変わってきます。
「主人に申し訳なくて、泣いて謝りました」と書いている人に、「あなたはご主人に対して悔しくて泣いたのでしょう。気の強い人だ」と決めつける。
「泣いた」という点しか見ていない。
「両親は近所に住んでいて」とちゃんと書いてあるのに、「ご両親ともし同居しているのであれば」という仮定で述べ始める。
行間を読むどころか、書いてあることそのものを読んでいないというのは、いったいどういうことなのでしょう。
ある事象に対して、いろいろな見方があるのはわかります。
けれども、正確に説明しているものを曲げて理解したのでは、話になりません。
頭ごなしというのはこういうことを言うのか、と感じた次第です。
となると、私がもし「神」という言葉を使い、前提としてその言葉の意味はこうであると十分説明したとしても、その説明を聞き、あるいは読んで理解する気のハナからない人にとっては、その後に続く話は全て意味をなさないということになります。
誤解されるのではないか、拒絶されるのではないか、という心配は、こういう人たちを前にしたら、取り越し苦労ともいえるでしょう。
物質文明サイコー!の人も、拝金主義の人も、自然の脅威の前には太刀打ちできないということを、今、強く感じているはずです。
何年か前のことですが、ある男性タレントさんがこう発言していました。
「うちの妻は、俺が冷蔵庫を開けたまま中を物色していると怒る。早く閉めろと言って。俺が家の電気料金払っているんだから、勝手だろ?」
あの人は、今、どう考えているのでしょう。
お金を払えば電気は来る。それをどう使おうと、お金払った側の自由だ、ということを言っていた、あの人は。
お金を積んでも電気が来ないことがあると、去年から今年にかけて体験しているはずですよね。
このように、今までの自分の考え方、生きる姿勢に、「何かが違っていたようだ」と感じている人は、増えていると思います。
ただ、じゃあどのように方向修正をしたらいいのか、答えてくれる人はそうそういない。
学校では、「人間の命は尊いものです」と教えている(はず)。
なのに、なぜ、いじめはなくならないのか。自殺はなくならないのか。
「人間の命は尊い」ということを、単なる理屈として教えるからではないでしょうか。
1+1=2、三角形の内角の和は180度である、というのと同じレベルで。
おそらく、それしか教えようがないのかもしれません。
医学部に在籍していた頃、ある教授が授業でこうおっしゃいました。
「医学は、『なぜ?』と3回聞かれると答えられない。そのことを肝に銘じて、医者は謙虚であるべきだ」
これはこういうことです。(P=患者さん D=医者)
P「なぜ、リウマチになるのですか」
D「自分の体の成分を攻撃する抗体ができるからです」
P「なぜ、そういう抗体ができるのですか」
D「…」
これなど、「なぜ」2回で、もう答えられません。
究極なのは、
P「なぜ、心臓は拍動するのですか」
D「自動能があるからです」
P「なぜ、自動能があるのですか」
D「…」
であります。
心臓がどうして動くのか、それすら医学ではわからないのです。
余談ですが、「神」は病気を作りません。また、物質も作りません。
人間がなぜこの世に生きているのか、生きる目的はなんなのか。
それがわからずに絶望している人、不安に思っている人、あるいは、がむしゃらに生きることで考えないようにしている人。
そういう人は多いと思うのです。
そして、自分はがむしゃらに生きることでなんとかなっていても、自分の家族が人生に絶望したとき、「人生は生きる価値のあるものだ」と堂々と言えずに、助けてあげることのできない人も大勢います。
病気や不幸にしてもそうです。
「あんないい人がなんで?」という状況。
その「なんで」に答えられない人は多い。
神が与えた試練だとなると、いい人に試練を与える神なんて、となる。
とにかく、とにかく。
私は決めました。「生きる目的の専門家」になると。
誤解や批判を恐れることはやめました。
言葉を尽くしても誤解する人には、誤解させておけばいい。
いえ、いつかは誤解だったと気づいてくれる時が来るのだから、それを待てばいい。
そう思えるようになりました。
私がそんなふうに思えるようにしてくれた、メソッドがあります。
カタカナ語を乱用するのが嫌いな私としては、メソッドではない用語にしたい。
なんでしょうねえ。
手段。方法。やり方。
技法?
なんか違う。
やっぱり、「方法」か。
それを近々、“ メンタルコンサルテーション静かな樹 ” のメニュー(これもカタカナだ。)に取り入れたいと思っております。
長くなりました。
これはブログであり、著書の文章ではないので、起承転結もヘッタクレもありませんで、思うままを書きました。
家族、友人、恋愛、仕事、健康。
大きくいえば、国、世界。
これらにまつわる悩みや問題は、各々が、生きる目的をしっかり理解していれば、解決していくことができるはずなのです。
あなたも、生きる目的見つけにきませんか。
あるいは、私を呼んでみませんか。
新しいプログラム、考え中です。乞うご期待。
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「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。
どのような考え方に基いてカウンセリングを行っているのか、月に1、2回のペースで書いていきたいと思います。
端的に言えば、「人間の本質は善である」ということ、そして、「自分を愛してこそ、人を愛せる」
「国を愛してこそ、自分を愛せる」ということが根底にあります。
また、どんな人生にも意味と目的があるということも伝えたいと思っています。
平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)