植物にとっての太陽光のごとく

すべての種類に
当てはまるわけではない
と理解した上で書きます。



植物はなぜ、
太陽に向かって伸びる
のでしょう。

太陽光が
自分を生かすと
知っているからですね。



ではどうやって
知ったのでしょう。

初めから知っていたのです。
植物というものが
この世界に
誕生したときから。



誰にも教わることなく
太陽に向かう、植物たち。

そして生きる。伸びる。



ところで、
人間はなぜ
しあわせを求めるのでしょう。

人間は知っているのです。

しあわせが
すでにあることを。



植物には太陽光が
初めから与えられています。

人間にはしあわせが
初めから与えられています。

ときには
目に見えないことがあっても、
あると知っているから
求めるのです。

自分を活かして人生を突き抜ける

死は終わりではなく、
ひとつの過程。

ですから、
体が老いようが何しようが、
心はずっと
生長しつづければいいのです。

いつくるかわからない
終わりを想定して、
さっさとしぼんでいく必要が
どこにあるのでしょう。

どんどん伸びましょう。


ただ、
心しておきたいことは、
「我を通す老人」に
ならないようにすること。

いるんですよね。
経験を活かすといって、
やり方を押し通そうと
する人。

周りが見えていません。

我を押し通しつづけ、
それを「元気」と呼ぶのは
無理があります。



思わず知恵を借りたくなる。
笑顔がすてき。
場の雰囲気がよくなる…。

そんな老人でありたいもの。



さて、
老人とは何歳から?

特に何歳ということは
ないはずです。

自分が老人だと思ったら、
老人。

40代で、
「年だから」という人は
自分を老人にしています。

人生の半分が
老人人生ですね。

それでいいんですかね。

個性を活かすのはなんのため

人の個性は
なんのためにあるのでしょう。

地球のため、
宇宙のためです。

自己満足のため
ではないのです。



それが
目立つものであろうが
地味なものであろうが、
活かすべきです。

というより、
個性を活かすために
人は地球に生まれています。



個性を活かす行動を
取ったとき、
宇宙のためになったと
はっきり分からなくとも、
必ず活きています。

目に見えるものだけが、
結果のすべてでは
ありませんから。

この一瞬にすべてがある

進化論が信じられています。

種(しゅ)が、
その地で生きるに適した形に
「進化」していく。



そうだとしたら、
思考能力のない生物や
高くない生物が、
「種」全体で
どうやって考えたのでしょう。

と、私は疑問に思います。

また、
生物の種類の多さは
何を意味するのでしょう。

それがいなくても、
地球が成り立つという生物は
たくさんいるというのに。



「適する」ことは合理性。

多様性は、合理性とは
相容れません。



多様性のすばらしさを
表現する場。

それが地球。

私はそう信じます。



この場合の多様性とは、
人間がこじつけた
理屈は含みません。

あくまでも、
自然の中でのこと。



合理的に進化したのではなく、
多様性のすばらしさを
愛で、喜び、尊重するために、
地球上のすべての生物は
共存しているのだと
信じます。

進化という
時間経過とは一切関係なく、
この一瞬に
多様性の美しさはあるのです。