責任と使命はちがう

サイキック・カウンセリングを受けていらっしゃる Y さんに、
ある “ 宿題 ” をお出ししました。

「自分が負うべき責任を考える」というものです。

そうしましたら、Y さんからメールがきて、
「責任ということばにピンとこないので、
使命や役割ということばに置き換えています。」
とのことでした。

私は返信しました。
「責任と使命はちがうのです。」と。



責任は、果たさないことは絶対に許されない事柄です。



たとえば、親の子供に対する責任は、

・安全を守る。
・心身の成長のために適切な行動を取る。
・必要な教育を受けさせる。
・社会で生きていくための知識を与える。

などですね。

子供の教育に集中してかかわり、
それが自分の使命だと思っている人がいますが、
使命ではありません。
責任を大きくしただけです。

それを使命だと思っているから、
子供が成長したとき、
離れていくことを受け入れられなくなるのです。



話がそれましたが。

あとはたとえば、社会人としての責任は何か。

・社会の秩序を守る。
・他人の権利を尊重する。
・率先して社会に貢献する。

でしょうかね。



こう挙げていくと、責任と使命がちがうこと、
おわかりいただけると思います。




さて、使命。

人それぞれが持って生まれてきます。

ただ、自分の使命に気づこうとしない人がいて、
果たさずに死んでいきます。

果たさずに死ぬことは、
許されないことではありませんが、
そのままでいいわけではありません。

課題として残ります。



というわけで、
自分の位置における責任は何か。
自分の人生の使命は何か。

どちらも非常に重要です。

しっかり自覚し、
責任も使命も100%で生きていこうではありませんか。


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「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。

どのような考え方に基いてカウンセリングを行っているのかを

書いていきたいと思います。

 

毎週月曜日 朝8時、更新予定です。乞うご期待。

平成24年9月30日 (中秋の名月)

好きなことをして死ねればしあわせなのか

男 「しあわせになろうね。」
女 「うん。」

と、しっかり約束して結婚したふたり。

ところが、蓋を開けてみると、
男のしあわせの定義と、女のしあわせの定義がちがっていた…

男は、精神的な生長を何よりも大切に思い、
毎月何万円分もの本を買って読む。
家を建てることや資産を作ることには、まったく興味がない。

女は、人生を物質的に楽しむことが喜びだと信じ、
家もほしい、旅行にも行きたい、
そういうところにお金を使うべきだと思っている。

となると、このふたりが夫婦でいても、
どちらもしあわせにはなれません。


げに、ことばの定義はとても大切なのであります。



さて、きょうのテーマ。

「好きなことをして死ねればしあわせ」
は、はたして本当でしょうか。

これも実は、
“ 好きなこと ” と “ しあわせ ” の定義によりますよね。



好きなことをして、結果、誰かに迷惑がかかるなら、
それは “ しあわせ ” とは呼びません。

 “ わがまま ” です。


そもそも、
「好きなことをして死ねればしあわせだよね。」
と言う人は、
自分自身がわがままなところを持っている人です。


私の母は、したくないことは絶対にしない、
たとえそれが義務であっても絶対にしない人でした。

そして、したいことは、どんな理屈をつけてでもする人でした。

たぶん、母のエピソードの数々を聞いたら、
「かわいいお母さんじゃないの。」
ということになるでしょう。

でも、それを家族の中でされたら、
かわいいなどとは言っていられないはずです。

( 数日前、テレビで、
某有名女性歌手の息子さんが、
母親のおもしろエピソードを話していました。
聞き手が、『ユニークなお母さんですねえ』といったら、
彼は、『それを親子でされるとキツイですよ』と答えていました。
その気持ちわかる、と私は思いました。)



私が20代の頃、友人Aクンが結婚することになりました。
Aクンのことは、母も知っています。

彼の結婚式2次会から帰ってきた私は、母に話しました。
新婦さんがいかにわがままか、
新郎新婦がちょっと会話しているのを聞いただけでわかるぐらいだったと。

そして、Aクンは、『僕はわがままな女性が好きなんだ』と言った、と。

すると、わが母は、
「いいなあ。」
と嘆息したのであります。

はい、そうです。
母は、わがまま放題を聞いてくれる人がほしいのです。
そういう境遇になれた、Aクンの奥さんがうらやましいのです。

自分もそういう男性と結婚していたら、
もっとしあわせだったのに…と思ったことでしょう。

( 母はよく、他家のご主人のことをうらやましそうに話していました。
誰々のご主人は、お風呂そうじをしてくれる。
どこそこのご主人は、休日必ず家族を遊びに連れて行ってくれる。
どれも、うちの父がしないことでした。)



そいういう母は、自分のわがままが通ればそれが最高なのです。
彼女はそれを “ しあわせ ” と呼ぶのでしょう。

けれども、母がわがままを通すことで、
家族には、常に、大いなるしわ寄せが来ました。
他人様や親戚の人たちも、困った顔をしていました。

これは、決して、“ しあわせ ” などではありません。

人それぞれのしあわせというものは確かにありますが、
それを逸脱しています。



真の “ しあわせ ” は、普遍的なものであるからです。



たとえるなら、
“ 人の命は尊い ” というのは普遍的な真理です。

それを、ある人が、
「人にはそれぞれの、命に対する価値観があっていい。」
と主張し、
「浮浪者は邪魔者だから、その生命は尊くない。」
という持論を展開したならどうでしょう。
それはちがう、と感じませんか。

それと同じことです。

“ しあわせ ” には幅があってよい。
けれども、普遍的なしあわせの定義はあるのであり、
人に迷惑をかけたり、人の自由を侵害したりする生き方は、
しあわせではないのです。



初めに定義がずれていると、求めても得られません。

定義をしっかり知った上で求めれば、
それは必ず得られます。



ちなみに、Aクンと奥さんは、
子供を3人もうけたあと、離婚しました。

Aクンが、奥さんのわがままに耐えられなかったようです。

あらら。


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平成24年9月30日 (中秋の名月)

逃げ出したくなる人

世の中に、大勢いらっしゃいます。

自分の価値をそのまま出すのが怖くて、
一歩が踏み出せない人。




今まで成功体験がないために、
自分は大したことがないと思っている人。

成功体験はあって、
人からも大いに評価されているのに、
「いえいえ、私なんて」の人。

この後者がクセモノだと、私、最近感じています。


クセモノといっても、
どうしようもないという意味ではありません。

能力が十分なのは、周囲の人たちにもわかるほど。
だから、モタモタしている本人を見かね、
そういう人たちが応援しようとあれこれ動いてくれる。

でも、本人、最後の一歩が踏み出せない。



そして、逃げ出す。



これをやっていると、そのうち、
周囲の人たちからの信用を失いますよ、といいたいのです。



本人は怖いのです。
だから逃げ出すのです。

それはわかります。

それでも、周囲がそれほどまでに応援してくれるということは、
もしかしたら自分が思っている以上に
自分には能力があるのではないかと、
立ち止まって考えてみてもいいと思うのです。

毎度毎度、逃げていないで。



立ち止まって考えてみてもわからない方、
サイキック・カウンセリングへどうぞ。

どこをとっても文系そのものだったはずが、
医者になってしまった私。
人の才能を引き出すのは得意です。

逃げ出したくなるあなたを、
前へ進むあなたへ変身させます。


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平成24年9月30日 (中秋の名月)

神はバチを当てるのか

本当の神は、バチを当てません。

本当の神は、お陰もやりません。



人間にはすでに、愛と善と喜びが与えられているのです。
それは、目の前に広がる大海のようなものであり、
そこから汲む量は、自由裁量に任されています。

コップを持ってきたなら、コップ1杯分。
バケツなら、バケツにたっぷり。
プールを持ってきたら、プールになみなみの量を汲めるのです。

厳然とそこにあり、それを自由に汲める。
それが、本当の神と人間の関係です。



バチが当たったと思うとき、
考えられる原因は2種類あります。

1.自己処罰の観念や恐怖

2.祈願した神が低俗であった



1.自己処罰の観念や恐怖

潜在意識であまりにも厳しく自分を裁き、自分を責めてしまう。
そして自分自身に罰を与えてしまう、というもの。
そのぐらいになって当然の私、と思うわけです。

あるいは、「こういう結果になるのではないか」という恐怖が
常につきまとい、その通りに展開するというもの。
病気に対する恐怖。
物事がうまくいくと、その先に必ず落とし穴があるという恐怖、等。



2.祈願した神が低俗であった

日本語で「神」とは、「唯一神」のことではありません。
いろんな段階の「霊」も、神と呼びます。

ですから、信用できる神だと思って祈願したところ、
世俗的な欲望、嫉妬、不満の念を持っている「霊」だった、
ということがあり得るのです。

その霊の気に入らないことがあったために、
不幸な状態にさせられたというわけです。



1も2も、自分が何を信じるかが大元だということです。



自分を含むすべての人間には、
すでに良きものがすべて与えられていて、
それをどれくらい受け取るかは本人の自由だということ。

それを信じるか?



神は人間のような感情を持ち、
ある人にはお陰をやり、ある人にはやらない。
さらにはバチまで当てる。

そんな神は本当の神ではないと、認めるか?



これらの点への認識が、

A.お陰をもらったりもらわなかったり、
 バチが当たったり当たらなかったりの人生。

B.自分の思いひとつで、
 良きものすべてが手に入れられると知り、
 そのために動く人生。


どちらを歩むことになるかを決めるのです。


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