努力の質と方向性

想念、つまり思いは実現します。
とはいえ、思えばいいというものではありません。
希望することを強く思い、あとは寝ていればかなうなどということはありません。

「果報は寝て待て」は、あせるな、気持ちを楽に持て、という意味だと思います。
本当に寝ているだけでいいというものではないはずです。

希望には質があり、努力には方向性があります。
希望の質というのは、それがよいものかどうかということ。
利己的でないか、他人の権利を奪うものではないか、他人を不幸に陥れるものではないか。
つまり、自分にとっていいことで、さらに人様にとってもいいことであれば、それはよい希望ということになります。

よい希望であると言えるなら、それは堂々と望んでいいのです。
豊かであること、幸せであることに遠慮はいりません。
豊かであれば、それを人に回すことができます。
幸せであれば、気持ちに余裕が生まれ、人を助けることもできます。
清く正しく慎ましくは、一見いいようであって、そうでもない。
人に及ぼすものが少ないから。
完全な自給自足もしかり。単なる自己完結は、人とのつながりを絶つことになります。

質のよい希望を持ったら、それに努力を添えましょう。
そのとき、大切なのは次のようなことです。

悲壮感を漂わせないこと。
できないかもしれないという不安を持ち続けないこと。

以前どこかでご紹介したことがあるかもしれませんが、私がよく心の中で唱える文があります。

「できると信じて、明るい気持ちで努力せよ」

この姿勢に、悲壮感はありません。不安もありません。

悲壮感いっぱいの努力は、たいてい自分を酷使します。その姿は、はたからは「なんてえらい人」と思ってもらえるかもしれませんが、長くは続きません。
ぶっ倒れるのがオチです。
のんびり続けていれば十年継続できたかもしれないことを、悲壮感たっぷりなために精神的に参ってしまい、三年で断念することになったらどうでしょう。

不安を持ち続けるということは、たとえば、せっかく土を耕して種まきしたのに、翌日心配になって掘り起こしてみる。大丈夫とわかったのでまた土をかける。ところがその翌日、また心配になって掘ってみる。
この繰り返しと同じこと。
これでは、芽が出るはずがないのです。

「人間は神性を宿して生まれる」ということを前回の記事に書きました。
それをいかに磨き出すかが大切だということも。
努力とは、そのためのものなのです。
成すべきことが小さくても大きくても、その真の目的はただひとつ。
神性を磨き出すこと。これに尽きるのです。

だから、こんなことがなんの役に立つのだろうと思われるようなことにも、全力を尽くして取り組むべきなのです。
日本人が、修行としてお手洗い掃除をするのも、こういう意味を潜在的に知っているからだと思います。

努力ということに戻れば、ゴールの見えない努力を続けなければならないとき、そういうときこそが正念場です。
これをすればここまで行ける、とわかっている努力はまだ続けやすいものですが、ゴールすらどこにあるのかわからないとき、不安になるなといっても難しい。

けれども、そういう努力が、神性研磨のための大切な過程であるとわかれば、不安も打ち消すことができるはず。
磨いた先は、いい結果が待っているに決まっているのです。

努力の方向性は、不安方向ではなく、明るい信念方向であるべきです。

太陽に向かって歩けばエネルギーをもらえます。背を向けて歩けば、見えるのは自分の影ばかりです。

楽しいのは、どっち?

 

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「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。

どのような考え方に基いてカウンセリングを行っているのか、
月に1、2回のペースで書いていきたいと思います。

端的に言えば、「人間の本質は善である」ということ、
そして、「自分を愛してこそ、人を愛せる」、「国を愛してこそ、自分を愛せる」
ということが根底にあります。

また、どんな人生にも意味と目的があるということも伝えたいと思っています。


平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)