互いに生かし合っているから
2014年12月1日
ある方へのメールに書いていて、
改めて噛みしめたこと。
たとえば、自分の前にお米のごはんが出てきたとき。
それが自分に巡ってくるまでにどれだけの人が関わっているか、
考えてみてください。
米は、農家さんの八十八の手間でできているといいますね。
だから1粒1粒を大事にしなければいけないと。
そうです。そのとおりです。
さらには、流通させた人、ごはんを炊いた人の手が加わっています。
しかし、果たしてそれだけでしょうか。
米を育てるためには、耕作機械を使います。
その機械が農家さんのもとに届くまで、
どれだけの人の手が加わっているでしょう。
肥料も必要です。
あれも必要、これも必要。
そうやって考えていくと、
自分の前にごはんが巡ってくるまでに、
無数の人の手が加わっていることがわかります。
着物1枚だってそうです。
型染めの着物を例に挙げますと、
縫う人の前に染める人がいて、
染める人の前に織る人がいる。
もちろん、途中で流通に携わる人がいる。
さらには、縫う人には針や糸を提供する人がいて、
染める人には型紙を作る人が必要で、
型紙を作るには、
彫るための道具を作る人がどうしても必要なのです。
誰が欠けても、1枚の着物は作れない。
こうやって考えていくと、
自分の身の回りのものすべて、
信じられない数の人のお陰で
存在していることに気づきます。
そんなふうに巡ってきたものを、
ぞんざいに扱うことなどできませんね。
活かして使わねば。
信じられない数の人のお陰で、自分の生は保たれている。
このことに気づいたら、
何か恩返しをせずにはいられなくなります。
ひとりひとりに直接恩返しするのは無理ですが、
社会に向かって何かすることで、
それが巡り巡って届くわけですから、
今の自分にできることをすればいいとわかります。
人間は、人生劇場の舞台に立ち、
できる限りの向上をすることが
人生の目的です。
その目的を果たすためにこの世に生まれてくるわけですが、
そのとき、互いに生かし合っていると知ることも
とても大切なわけですね。
人生劇場はひとりでは演じられないからです。
そうであるならば、
お互いに感謝し合い、
恩返しをし合うのは、当然の成り行き。
もう、居ても立ってもいられない。
何かせずにはいられない。
ちょっとしたことへの文句なんかも、
言ってる場合じゃない。
自然とそう思うはずです。
「自分にはできることがない」などとは
絶対に言わせません。
足がなければ手で、
手がなければ口で、
口がなければ目で、
目がなければ雰囲気で、
恩返しはできるからです。
それをしようと思わないなら、
「自分の前に何かが巡ってくるのは当たり前」
と、思っているということです。
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「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。
どのような考え方に基いてカウンセリングを行っているのかを
書いていきたいと思います。
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平成24年9月30日 (中秋の名月)