人間は愛を本質とする霊的実在である
2015年2月16日
争いや憎みによって何かを獲得した悦びは
必ず後味が悪いものであって、
その悦びは、愛によって何ものかを与え去った悦びの深さには及ばない。
奪った悦びは魂を傷つけ、
与えるために失った悦びは魂を高めるのである。
人間が単なる 「肉体」 と云う物質的存在ならば、
物質が増加したときにのみ悦びを感じ、
物質が減ったときには必ず悲しみや不快を感じなければならないのに、
人間が、“ 愛 ” によって誰かに与えることによって物質を失っても
却って悦びを感じ幸福感が得られるのは、
人間が決して単なる物質的存在ではない証拠である。
若し ( もし ) 私たちが純粋に “ 愛 ” のゆえに、
「愛する行為」 をし、
その結果、肉体が傷ついても、物質を失っても私たちは決して、
「愛する行為」 をしたことを
後悔することはないにちがいないのである。
これは人間の本体が決して 「肉体」 でも 「物質」 でもなく
「愛」 を本質とする霊的実在である証拠である。
( 谷口雅春 「新版 真理」 第10巻より )
たとえば、食欲を満たすことは肉体を悦ばせること。
もし、人間が肉体だけの存在だったら、
そちらが優先されるはず。
ところがそうではなく、
母親は、自分が飢えても子どもに食べ物を分け与える。
いやいや、子どもが飢え死にするとわかっていて
放置する母親がいるではないか。
という意見もあるだろう。
そう、確かにそういう母親はいる。
そして、それもまた、
人間が、肉体に属する本能だけで動いているのではないことの
証拠ではないだろうか。
種族を残すという本能によって子育てしているのなら、
放置せずに育てるのだ。
子どもを放置して餓死させる母親は、
愛の出し方を知らないのである。
愛が人間の本質。
真の悦びと、真の向上心を伴って。
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「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。
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