分岐点だらけ
2012年2月2日
私が二度目の読み返しをしている本の中から引用します。
じっくり味わって読んでいただきたいと思います。
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運命が外から課せられた宣告であると観じて、それが真理であるならば人間は奴隷である。
併し(しかし)個人の経験の原因は環境の中にあるのではなく、個人の心の内にあるのだと言うことが自覚され始めたとき、人間は奴隷状態から解放され、自由人となり民主主義的生活を実際に行い得るのである。
自由の世界と云うものも決して法則がないのではない。
法則がなくて滅多矢鱈に各人が動き出したら、交通規則のない繁華街のように交通事故で衝突や負傷や色々の不幸が起るのである。
すると結論は必然的に法則が存在し、その法則に則って各人が生活するとき個人は自己の生活を欲するがままのものに正確に決定することが出来ると云うことになるのである。
即ち、法則は各人を縛るものではなく法則は「道」である。
自動車道も、人力車道も、その他いろいろの道があるが、そのうちどの道を選ぶかと云うことによって、諸君の身に降懸って(ふりかかって)来るすべての運命は決定する。
だから法則は決して我らに宿命を課するのではない。
あなたの運命の原因は貴方の内にあるのだと云うことが出来るのである。
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人力車が登場したりして、かなり前に書かれたものだということがおわかりになるでしょう。
しかしながら、真理は常に新しいのであります。
人間が生きるべき正しい道は、昔も今も等しく用意されているのです。
上の文章は、私が解説するまでもありません。
運命とは何か。自由とは何か。
はきちがえている人が、世の中多いと思いませんか。
ひとつだけ付け加えておきたいと思います。
どの道を選ぶかによって運命が決定する…もし、過去を振り返ってみて、「ああ、あのときの選択はまちがっていたな。それで今こんなふうになってしまっているのだな」と思ったら、
あきらめないでください。
人生においては、いつだって逆転ホームランが打てます。
分岐点で、A道とB道の選択肢があり、A道を選んでしまった。それはまちがいだった。
そういうとき、もうこのまま進むしかないのでしょうか。
そんなことはありません。
分岐点はその後も次々と現れます。
いくらでも挽回できるのです。
人は大きな分岐点ではそれと気づきますが、小さな分岐点には気づきません。
実は、人生は、瞬時瞬時が、小さくて大きな分岐点なのです。
外を歩いていて、向こうの信号が青になった。これから渡ろうとしている横断歩道だ。
そういう場合、どうしますか。
あるときは、その青で渡ろうとして小走りになる。
またあるときは、次の青まで待とうと決め、のんびり歩く。
これも瞬時に現れた分岐点とその選択です。
小走りで渡ったがために、歩道に突っ込んできた車にひかれずに済んだ、ということがあるかもしれない。
次の青まで待ったために、信号無視の車にはねられずに済んだ、ということもあるでしょう。
その場ではここまで大きな結果は出なくても、人はいつも分岐点を通って生きているのです。
一度や二度まちがった選択をしたからと言って、あきらめる必要はないのです。
では、どうやったら、正しい選択ができるようになるのでしょう。
それは、無意識のうちに分岐点で選択をしているのは自分の “ 心 ” であると知ることです。
心の奥深い部分が、瞬時の選択をし続けているのです。
「ふと」こうしようと思うというのは、その表れです。
自己卑下や自己処罰の感情がある場合、心は自分を不幸にする選択をします。
そうやって、望みどおりに不幸へと進んでいく。
まさかと思うでしょうが、望んで不幸になっていく人がいるのです。
心のしくみを理解すれば、運命は甘んじて受けるものではないとわかるはずです。
やはり、
「あなたの運命の原因は貴方の内にあるのだと云うことが出来るのである」
なのです。
常々心を磨いていれば、よい選択ができるようになります。
清い心。
厳しさと大らかさと温かさを兼ね備えた心。
そういう心のありようを目指したいものです。
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「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。
どのような考え方に基いてカウンセリングを行っているのか、
月に1、2回のペースで書いていきたいと思います。
端的に言えば、「人間の本質は善である」ということ、
そして、「自分を愛してこそ、人を愛せる」、「国を愛してこそ、自分を愛せる」
ということが根底にあります。
また、どんな人生にも意味と目的があるということも伝えたいと思っています。
平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)