「常識」と「許容範囲」

どこまでが常識か。

むずかしいですよね。


どこまでが許容範囲か。

むずかしいですよね。




子どもの頃、
わが家には秩序が一切なく、
常識はずれだらけでした。


私は、人様から
「常識がない」と思われるのを
恐れていました。


そして、
社会の常識を
一から十まで知ろうと必死でした。


顔はどうやって洗うのが常識なのか。


布団のたたみ方は?


顔を洗いたいといっても
洗うなとわれ、
布団をたたみたいといっても
たたむなといわれていたのです。


そんなの
勝手にやればいいことのはず。


でも、わが家では絶対に無理だった。


大元の原因は、
うちがゴミ屋敷だったこと。


タオルがどこにしまってあるのか、
教えてもらえない。


探そうとすると怒られる。


布団は、全員分が
重なるように敷いてあるので、
自分の布団だけたたもうとすると
大変なことになって、怒られる。


こういった常識はずれは、
家中に蔓延していました。


対外的なお付き合いも
非常識の極み。


その詳細は省きますが。




うちはおかしいと気づいたとき私は、
家のやり方すべてを
疑ってかかるしかありませんでした。




そうやって、
神経質なぐらい
常識を気にしつづけた私ですが、
振り返ってみると、
生き方は常識はずれそのもの。


これは、
あらゆる面で常識はずれな親のもとで
育ったからでしょう。


ということは、
あの両親でよかったのです。


何十年ものゴミ屋敷住まいと
非常識の数々は、
誰かにばれたら
街中の笑い者になっていたでしょう。

そうなるかもしれない不安を抱え、
本当に苦しかった。


それでも、
私はあの両親のもとで
育つ必要があったのです。


それがわかった今。


あとは私が
人の常識はずれを
どこまで許容できるか、です。


そもそも、常識は流動的なもの。


地域によっても
時代によってもちがう。


だから、
私が「こうだ」と思う常識を
人に対してギチギチに適応するのは
おかしい、ということになります。


そのことを
頭だけでなく
心がすんなり受け入れられれば、
常識との格闘は終わるでしょう。


それもたぶん、もうすぐ。


ただし、一線は残します。


なんでもありは、無秩序。


無秩序に平穏はない。


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メンタルコンサルテーション
静かな樹

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